2019/05/20日本遺産認定
(1997/3/1)「市報いずみさの」平成9年2月1日号 抜粋 [1月号][3月号]
日本遺産認定 「中世 日根荘」
いずみさの 昔と今
「日根野村・井原村絵図」
今月は「日根野村・井原村絵図」(鎌倉時代終わりごろ:宮内庁所蔵)を見てみましよう。この絵図には、丘陵や樫井川、海岸線などに囲まれている範囲、つまり大木と土丸を除いた現在の泉佐野市のほぼ全域が描かれています。
この絵図を見て目につくのは、上方中央に描かれた神社(社殿と鳥居が見える)と、そこからまっすぐに下に向かって海岸まで伸びる並木状の樹木の列、それに直行する街道や青く塗られた池、あちこちに描かれた家々などでしょう。
これらはいったい何を表したものなのでしょうか。まず、神社は大井堰(おおいせき)大明神(現在の日根神社)と見てほぼ間違いないでしよう。
並木状の樹木列によって、「井原」あるいは「荒野」と書かれた範囲と「上郷」「長滝」「安松」「岡本」と記された範囲が区分されています。(これらは、現在も残っている地名です。但し、残念な事に「荒野」だけは、残っておりません。)
これは実在した並木を描いたものというよりも、両者の境界線を表現したものと考えられます。
[絵図拡大(クリック)] [泉佐野全域航空写真(1947/9/22)] [現在の日根野航空写真」
この絵図が日根荘の井原村と日根野村にある荒野の開発を目的として描かれたことは先月号で触れましたが、
この表現は開発の対象地と、そうでないところを明確に区分するためのものであったと考えることができます。絵図を横断する街道は熊野街道です。街道沿いにため池や家がいくつか見えますが、
集落を表したものと考えられます。これらの集落が現在のどこに当たるものかを考えて
みても楽しいでしよう。もうひとつのため池は、丘陵沿いにあります。場所や形状から見ると、現在の十二谷池と考えられます。
荒野の開発を行うために農業用水は欠かせませんが、この池が今から
約700年も前からこの地域にとってたいせつなため池と考えられてきたことがうか
がえます。[続き]
(1997/3/1)「歴史館いずみさの」常設展示案内資料 抜粋
「明野陸軍飛行学校佐野分教所のある泉佐野」
練習機だけでなく、1945年には戦闘機も配置され、特攻機の中継所ともなった。
[写真拡大(クリック)]( 常設展示案内資料 抜粋)
【この写真は、米軍撮影の空中写真を建設省国土地理院の承認を得て、掲載したものである。1947年9月22日撮影】
「子供の頃より”ひこじょう“が、有ったと聞いていました。しかし、これほどの大きさとは、思いませんでした。
そして、この約50年後の現在、この海岸約5キロメートル沖に”関西国際空港“が、世界の窓口として、日夜運行されています。(歴史の偶然?或は、皮肉?、いたずら?、地の利?)
写真には、JR阪和線(日根野)あたりから、海岸まで(山側を除いた泉佐野全域)と思われます。」
この写真を海から、よ〜く見れば境界線が残っているようです。「日根野村・井原村絵図」そのまんまやで。
(およそ650年経っても、変ってへんみたいやな。現在海岸は、埋立てられましたが、埋める前かて~おんなじやな。)
『泉佐野市史研究(第2号)』P36抜粋/泉佐野市史編さん委員会承認済戦後既に跡地の開墾が始まり、旧紀州街道が復活している。
滑走路は当時不足していた塩をつくるため、海水を汲み上げ三井物産が使っていた。
右上が長滝村、左上が日根野村。左上に未完成の横風滑走路の一部が見える。
(注意:上の写真とこの写真とでは、上下180度回転しています。)
「現在の日根野航空写真」も比較すると。写真は上下ひっくり返して、比較してください。
手前が海側、奥が山側です。
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