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いずみさの 昔と今【1月号】 日根荘に関連する2枚の絵図

2019/05/20日本遺産認定
(1997/2/10)「市報いずみさの」平成9年1月1日号 抜粋 [2月号][3月号]

日本遺産認定 「中世 日根荘」
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いずみさの 昔と今

「日根荘に関連する2枚の絵図」

歴史館いずみさのでは、「和泉国日根野村荒野開発絵図」(以下「日根野村絵図」)と「和泉国日根野村・井原村荒野開発絵図」(以下「日根野村・井原村絵図」)
の2枚の絵図を展示しています。今月号からこの絵図を見ていくことにしましよう。
絵図は現在、宮内庁書陵部に所蔵されていますが、このことは日根荘の領主が、代々天皇の摂政,関白をつとめた九条家であったことによるものと考えられます。
では、これらの絵図が、いつ、だれによって描かれたのでしょうか。

 

  和泉国日根野村 荒野開発絵図和泉国日根野村・井原村荒野開発絵図
宮内庁書陵部所蔵(転載厳禁)宮内庁書陵部所蔵(転載厳禁)

この問いを解くカギは、岸和田市の久米田寺に伝わる「久米田寺文書」にあります。
久米田寺は平安時代末期ごろから九条家とのかかわりを持ちはじめ、同家の御祈祷所となっていました。
久米田寺文書の正和5(1316)年10月16日の史料の中に次のような記述があります。
「延慶3(13l0)年から、実専という僧が荒野の開発にあたってすでに7年が経過しているが、まったくはかどっていないので中止させよ。」という内容です。

九条家文書など他の関連史料から、このときの開発の対象地が日根野村と井原村であったことがわかっており、日根野村・井原村絵図」は延慶3年ごろに日根野村と井原村の荒野の開発
(ただし、このときの開発は失敗に終わっています)を目的として描かれたものと考えられます。

では、もう1枚の「日根野村絵図」はどうでしよう。

九条家文書の正和5(1316)年4月8日付の久米田寺から九条家に送られた手祇の中に、「このたび井原村を除く日根荘内の荒野の寄附を受けたので、ここを田地に開発して寺の収入源にしたい。」という記述が見られます。

「日根野村絵図」の裏には「正和五年六月十七日」の記載がありこの手紙と日根野村絵図」の関連がうかがえますこれらのことから、この絵図は実専による開発の失敗の後を受けて、日根荘内(井原村を除く)の荒野の開発を目的として描かれたことがわかります。[続き]

 

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